きなくぐ小説 悪夢


午前3時46分。異常を検知したのか、予定されていた時刻より早く、スリープモードは解除された。
原因はおそらく、自分の二段下のベッドで眠る潜だろう。荒い呼吸が聞こえる。すぐに生体スキャンを試みるが、ベッドに遮られておおまかにしかわからない。
充電ケーブルを抜き、はしごを降りる。來人を起こさないように、慎重に。
潜のベッドの前に立つと、カーテン越しでも呼吸の乱れと心拍数の上昇が確認できる。怪我や病気の類ではなく、うなされているだけだろうと判断したが、カーテンを開けてさらに精度の高い生体スキャンを行うべきだろうか。それとも、起こすべきなのだろうか。うなされる原因は夢であることが多いが、潜は悪夢を見ているのだろうか。

新緑の瞳にきらめく金髪がふわりとかかる。彼の長い指が白黒の鍵盤に触れる。固く冷たいはずの鍵盤が奏でる音は春の木漏れ日が若葉を照らすように柔らかくて、彼そのものだ、と思う。
 1曲弾き終わった彼の瞼がぱちりと瞬いて、僕を見つめる。
「君もどう?連弾してみない?」
 彼は体をずらして椅子を半分あける。僕はドキドキしながら、1歩ずつピアノに近づく。彼が空けてくれた、彼が座っている椅子に、僕も座ろうと、した。
 僕の両腕が鍵盤に落ちて、ピアノがすぐそばに落ちた雷みたいな酷い音を鳴らした。腕はそのまま床に転がり落ちた。白黒の鍵盤が鮮やかな赤に染まっている。フレデリクは?振り向こうとして、バランスを崩してその場に座り込んだ。見渡しても見えるのは暗闇と、壊れた椅子、ピアノ、そして僕の両腕だけ。
「空港で待ってるから」
 声が聞こえた。そうだ、空港に行かなきゃ。そこで、彼と待ち合わせをしたんだ。
 立ち上がろうとするけど、うまくバランスが取れない。急がなくちゃ、急がないと…
「潜」
 僕を呼ぶ声がする。これは、誰の声だったっけ。
「潜…潜、潜!」
 ぐいっと引っ張られるように世界が歪んで、目を開けると、幾成が居た。
 見慣れたベッドの天井が目に入って、ため息をつく。
 
 潜がもし悪夢を見ているのなら、夢から醒めることで多少の苦痛は取り除けるのではないか。そう判断して、名前を呼びかけた。呼びかけても目覚めないため、体を揺さぶってみることにした。触れた肩は発汗のせいで少し湿っている。
「潜!」
 何度めかの呼びかけで目を開けた潜は、自分の顔を見て、ベッドの天井をみて、ため息をついた。潜が見ていた夢がどのようなものだったかは分からないが、それが夢だったということを理解したのだろう。
「プルシュ、どうして…。」
 潜は呆れたような顔を作っているが、目には涙が溜まり、呼吸も震えている。
 こういうとき、どうしたら良いのだろう。少し考えて、尋ねてみた。
「潜、抱きしめてもいいか?」
 潜は目をそらして、拗ねたように答えた。
「どうして」
「ハグにはストレスを軽減する効果があるから」
 潜は諦めたようにクスッと笑って、いいよ。と答えた。

よく似た腕がお互いの背中に回る。潜の不規則な呼吸と高ぶった心音が、幾成のプログラムされたリズムにつられて整っていく。二人は静かに抱きしめあったまま、布団に寝転んだ。

やがて、潜の寝息が聞こえ始めた。先程のような乱れは感じられない、穏やかな寝息。自分は分け合える人肌の暖かさは持っていないが、36度に設定されたボディは、少しでもその代わりになれただろうか。
幸い最低限の充電はされているし、今日のスケジュールなら充電し直す時間もある。自分もこのままスリープモードに入ることにした。